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NPO花岡平和記念会

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NPO花岡平和記念会

 中国人強制連行がもたらした花岡事件を風化させず後世に伝え、子々孫々まで日中友好を引き継ぐために、毎年6月30日に大館市主催で行われる「中国人殉難者慰霊式」に合わせて諸行事を実施し、加害の力平和を発信する「花岡平和記念館」を建設して展示を公開しております。

記念館開館について

4月~10月まで
土曜日、日曜日の10時~3時まで
*但し事前に連絡がある場合は見学が可能です

花岡事件とは

 私たちは、戦時中の中国人強制連行を象徴する「花岡事件」が起きた秋田県大館市で、虐殺された419名の中国人犠牲者の遺骨送還を中心とする平和活動を伝承し、1950年以来自治体が挙行している毎年の慰霊活動を支援し、関連行事を実施することで生存者・ご遺族との交流を通じて、かつての加害の地から平和を発信する取り組みにかかわっております。

 第2次世界大戦のおり、日本は中国大陸に侵略戦争を展開し、現地での労働力確保のため中国人の捕虜、民衆を捕らえて使役し、侵略が拡大するにつれて、その範囲を拡大させました。同時に、戦地への徴兵により日本国内の労働力も不足をきたしました。それを補うため当事の東条内閣は、1942年11月「華人労務者内地移入の件」という閣議決定で中国人強制連行を国策として遂行しました。

 秋田県大館市。青森、岩手、秋田という北東北3県のほぼ中心に位置するこの地方は古来から銅の産地であり、当事の北秋田郡花岡町には藤田組(現在の同和鉱業)の花岡鉱業所がありました。銅の戦時増産体制が敷かれる頃には、労働力が不足し、中国人強制連行に負うところが大きくなりました。

 藤田組が298名の強制連行を行ったのと同時に、土木部門を請け負っていたのが当事の鹿島組であり、鹿島は3次にわたり986名の中国人を強制連行し、「中山寮」と呼ばれる施設に収容して、苦役を強いました。このうち419名(藤田組の10名を加えると429名)は中国の地に生きて帰ることができませんでした。

 これは厳寒の地にあって寒さと飢えを凌ぐには程遠い衣食住しか供されず、極度に劣悪な衛生状況の下、限界を超えた過酷な労働を強いられ、さらに補導員が筆舌に尽くし難い虐待と凌虐の限りを尽くした結果にほかなりません。その死亡率は約42%に達し、死亡者数の多さと合わせ、日本国内でも有数の劣悪な実態を示しております。

 花岡では、過酷な労働と虐待に耐えかね、1945年6月30日、「民族の尊厳、そして人間の尊厳を守るため」一斉蜂起し、近くの獅子ケ森などに逃走しますが、それは失敗に終わります。憲兵隊、警察に現地の民間人をも加えた圧倒的多数の日本人により鎮圧され、鉱山の娯楽施設「共楽館」前広場に3日間、炎天下に数珠繋ぎにされ、虐待が加えられ、この1カ月間だけでも100人以上が死亡しました。

 連行された中国人のうち、首謀者は戦時騒擾罪として送検され、11人が起訴され、敗戦後の9月11日、無期懲役1人を含む判決が秋田地方裁判所で下されました。この出来事は、戦後秋田に進駐したGHQの知るところとなり、中国人被告11名は釈放され、鹿島組の補導員及び地元警察はBC級戦犯を裁く横浜裁判にかけられ、死刑3人を含む6人が有罪とされました。(後に減刑され死刑執行はなく、全員釈放)

地元の運動

 戦後、花岡事件は、地元における加害意識も手伝って、「負の遺産」については語られないことが通例となっていきます。そんな中。1949年8月、地元の朝鮮人連盟に属する金一秀、李鐘応の2氏が、散乱している中国人の遺骨を発見して「留日華僑民主促進会」に連絡し花岡事件が世に知られることになりました。その後遺骨を預けられた信正寺住職の訴えを無視してきた鹿島建設は、1949年10月、中華人民共和国が誕生するとようやく寺の裏手に「供養塔」をつくりました。翌50年10月から11月にかけて、地元と東京で慰霊祭が開催されました。

 こうした運動の積み重ねと総評、日本仏教連合会等の国民運動の結果、1953年7月の第1次遺骨送還で祖国への帰還が実現しました。1960年4月、散乱する遺骨が再度発見され、1963年6月には全国に呼びかける「一鍬運動」を展開、500名を越す参加者の手で12箱の遺骨を収拾しました。この年の11月、十瀬野公園に「中国殉難烈士慰霊之碑」が建立されました。1966年には、全国に呼びかけるとともに、毎戸訪問によるカンパ活動を展開し、市民運動の結晶として、中山寮を見下ろす小高い丘の上に「日中不再戦友好碑」を建立しました。翌1967年、花矢町(旧花岡町)は合併して現在の大館市になり、その後は慰霊行動を継続してきたものの、事件と平和活動は時と共に風化が進みました。

 こうした流れに歯止めをかけるべく、若い労働者を中心に事件を語り継ぐ早朝行動が始まり、1985年には大館市主催の慰霊式が市民体育館を主会場に挙行されました。この慰霊式を契機に、中国から生存者やご遺族が来日し、市主催の慰霊式に参加されるようになりました。そこでは、慰霊式と現地実行委員会が実施する関連行事を通じ、中国からの方々と多くの市民が交流を重ねてまいりました。

裁判と和解

 1989年12月、花岡事件の生存者・ご遺族が「花岡受難聯誼会」を結成し、鹿島建設に「公式謝罪」「記念館の建設」「補償」の3項目要求を提起しました。1990年7月、鹿島は聯誼会との「共同発表」において、「深甚なる謝罪の意」を表明し、3項目の一つは実現しました。残る二つについては、共同発表後の交渉が進展せず、花岡事件から50年目にあたる1995年6月、ついに東京地裁に提訴することになります。

 1審は門前払いの判決でしたが、東京高裁において、20世紀もあと一ヶ月足らずとなった2000年11月29日、職権により勧告された和解が成立しました。その内容は、1990年の共同発表を再確認のうえ、鹿島側が中国紅十字会(中国赤十字会)に5億円を信託し、「花岡平和友好基金」を設立して全体解決をはかることになりました。11人の原告が986人の問題解決をはかるスキームは、画期的といえます。2001年6月30日、和解後初めての生存者・ご遺族、中国紅十字会等の関係者40名余りが、2002年にも同様に50名余りの方々が花岡平和友好基金の慰霊活動として大館を来訪しました。現地を訪れるご遺族は、この旅を通じ、現地での多くの生存者から語られる肉親の死を50数年ぶりに実感として受け止めることができ、生存者も往時の無念さに思いを馳せることで慰霊の感を深くされております。

NPO花岡平和記念会

花岡平和記念会 花岡平和記念会
花岡平和記念会 花岡平和記念会

 生存者とご遺族の発見以来、毎年大館市で開催されている慰霊式に多くの中国の方々が訪れることになりました。はじめは当然のことながら反日感情が強く、頑なであった生存者やご遺族が、全国の支援の方々や現地で温かく迎える人々と触れ合うことにより、次第にわだかまりが氷解し、かつて地獄のような労苦を味わった、あるいは、かけがいのない肉親を失った人々が、長年の深い傷を癒すことができた、そんな声が徐々に沸いてきたように見受けられます。大館の地で花岡事件の支援を通じ平和を希求する私たちは、毎年、生存者とご遺族を受け入れ、関連するフォーラムの開催や現地フィールドワークの実施のために「6.30実行委員会」を構成してまいりました。

 しかし、2000年11月の和解成立を受け、恒常的に花岡事件に触れ合うことで、次の世代にこの「事件」を語り継ぎ、更なる交流により、かつての加害の地から真の平和を発信することを目的に、2001年5月、「日中平和大館会議」を結成し、その発展的な形態として、2002年6月、NPO法人「花岡平和記念会」を設立しました。この法人の活動目的の一つは、これまでも実施してきた様々な活動の継続であり、もう一つは、花岡事件を記録し、全国から当地を訪れる皆様を現地にご案内するための施設として「花岡平和記念館」を建設し、常設の資料展示場と現地フィールドワークのベースとして活用したいということです。先に述べた3項目要求の残された課題が、この「記念館建設」であることからも、草の根的に全国に呼びかけ和解から10年後の2010年4月17日に開館を迎えることができました。
これまでの全国の皆様からの絶大なご支援ご協力に感謝申し上げます。

NPO花岡平和記念館オープニング

花岡平和記念館オープニング 花岡平和記念館オープニング 花岡平和記念館オープニング

 2010年4月17日、NPO法人・花岡平和記念会(川田繁幸理事長)が、秋田県大館市花岡町に建設した花岡平和記念館のオープニングセレモニーを行った。
 当日は、花岡事件の幸存者や遺族、地域住民が約150人参加し開館を祝い、花岡事件を風化させず後世に語り継ぐことを誓い合った。
 はじめに、川田理事長や佐竹敬久秋田県知事、小畑元大館市長、幸存者の李鉄垂さん、中国大使館蒒剣参事官、福島みずほ内閣府特命担当大臣らがテープカットを行った。

 川田理事長は「記念館は加害の地に加害およびその前後の事実を記録するもので、わが国では異例のものといわれるかもしれません。第二次大戦中に中国から38,935人の方々が135の事業所に強制連行され過酷な労働と虐待により、6,830人の方々がお亡くなりになりになりました。花岡事件は中国人強制連行の象徴的な事件と言われますが、記念館は花岡で起こったことを中心に強制連行に限定してという意味で記録する全国の唯一の施設になります。正しく将来に向き合おうとするなら過去の事実と向き合い、若い世代がなぜ虐待が起きたか、中国の方々がどのような思いを抱いたかを考えることによって人間愛や正しい国際感覚をもち、これからの社会の在り方の指針が与えられるものと思います」と述べた。

 福島大臣は、「多くの皆様が募金活動をして開館にこぎつけたこと、幸存者、遺族の方々が中国から来られたことに歓迎と敬意を表します。開館は二つ意味があると思う。一つは秋田県、大館市で『6月30日』の歴史を心に刻んで慰霊式を行ってきた長い歴史です。市民の皆さんが一緒にやってきたこと。それが記念館に結実したと思います。二つ目は私自身アウシュビッツなどいろんな記念館に行くようにしている。加害を行った場所で、加害の地の人と被害にあわれた人とが力を合わせて記念館作ったのは世界で最初かもしれない。そのことの意味が大きいと思います。受難者の皆さんを心から追悼し、歴史と事実を心に刻み、未来をともに切り開いていけると確信しています」と祝辞を述べた。

 また、蒒剣参事官から川田理事長に対し、程永華大使が看板の題字にと揮毫した書が贈られた。この後、来賓の皆さんは川田理事長の案内で会館内の展示について説明を受けた。この開館式に参列した池田香代子(ドイツ文学翻訳家)さんは、前日の記念講演会で「地元の皆さんは花岡事件を負の遺産として考えるのは痛いほどわかるが、事件関係者が中国から花岡を訪れ、心が癒され第二の故郷と思うという話を聞く。それは、自治体が慰霊式を長い間行っていることを知り、地元の皆さんが暖かく迎えてくれるからであると思う。これを機に負の遺産でなく「富」の遺産として子供たちに伝えてほしい」と語った。

問い合わせ先

〒017-0885 秋田県大館市豊町2番37号
TEL 0186-42-6539
FAX 0186-43-1302
E-mail: hanaoka630@outlook.jp
会費、寄付金等の振込先:郵便局口座番号 02230-3-76515
会の名称:特別非営利法人 NPO花岡平和記念会
入会金 1,000円
年会費 3,000円

役員

理事長   川田 繁幸
副理事長 田中 宏
副理事長 谷地田 恒夫
理事   伊藤 治兵衛
理事   石田 寛
理事   内田 正敏
理事   木越 陽子
理事   成田 博樹
理事   誉田 正司
(50音順)

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